松濤 明 2

 こういう態度がスポーツ的でない、ということはできないであろう。だが少なくとも登山的でないことだけは確かである。今日のわれわれの観念からすれば、羚羊撃ちや地質探査は登山と呼ばれない。しかしそれは猟師や鉱山師が谷から谷を探り歩いたり、山の腹を捲いて歩いたりする場合のことであって、もし彼らが――本意ならずも――エベレストの頂上に立ったとすればやはりわれわれはそれをエベレストの登山と認めるであろう。スポーツの場合も同様であって、沢を遡行して登りつめたところから漫然と尾根を下ったり、山の裾の岩壁を上り下りすることが、何故に登山と言えるであろうか。
 それでもスポーツであればよいではないか、という主張もあろう。いかにもそういう行為がスポーツでないわけはない。だが、スポーツであるにしても、なんと末梢感覚的、病的なスポーツであろう。芯からの逞しさや、均衡のとれた豊円さはとても感じられない。そしてこれで満足させられるようなスポーツ感情はなんと病的なものであろう。多少穿ち過ぎた推測かも知れないが、「他人がどう登ったから、自分はどう登る」といった競争意識、登山技術のみをもって人間の格付けをしようとする技術偏重主義、あるいはさらに進んで、取るに足らない小さな谷や尾根を漁り歩いて、それが前人に取り残されていたがゆえに、自分がひとかどのことを成しとげたように思い込む功名主義など、皆こうした病的趣味に根を発しているのではなかろうか。

 大東亜戦争の始まる頃から、この懐疑は不断にまつわりついて、山へ出かける時にも、山を歩く時にも私を離れなかった。自分の幸福、他の者の幸福――他の者の幸福に基づく自分の幸福……。
 軍隊に入る時は、よもや二度と生きて山を歩けるとは思わなかった。それはまた一つの慰めでもあった。自分自身で決断し切れなかった問題を、境遇の変化が強制的に解決してくれることになったから。忙しい軍隊生活の中では、山を思い返す暇はなかった。ほんの断片的な山の印象、山の匂いとか、山の風とか、霜融けの温まりとか、そうしたものはしばしば強烈に甦ってくることもあったが、登攀を回顧させるほど特別なものではなかった。
 そうして次第に山を忘れていった。否、忘れたと思っていた。二カ年の南方生活の問はとくにそうであった。
 復員したのがこの七月、帰って見れば親父が死んでいつの間にか一家の長となっている。その跡片づけの煩雑さ、忙しさは目の廻るようだった。それでも菜園の手入れをしている時など、木蔭を渡る風のささやきに、ふと、山を想い出すこともあったが、現在の社会情勢からして、家の事情からしても、到底山へは行けるとも思えなかった。今度こそ真から山を諦め、忘れることができると信じていた。そしてそうするように、無意識的な努力をしていた。山の本など倉の奥へしまい込んで。
 ある日、私は隣村に通ずる橋を渡って、伯父の家へ急いでいた。今まで貸していた土地の問題について伯父の知恵を借りるために。もう夕暮近くなって、涼しい風が田の面を渡っていた。稲の青い穂が波打って、秋が近づいていた。

 上町の中心は古めかしい家が道を挟んで軒を連ねていた。そこを通りすぎて真新しい茶屋に腰を下ろして昼食をとった。この茶屋の脇から下栗への急峻な里道が分岐している。ジグザグはあるがほとんど真正面に喰いついて行くといった感じの道で、下栗まで一時間半の喘登はまったく身にこたえた。下栗はのびやかな里であった。明るい茅戸の山腹に階段状に家が立ち並んで、視野は一面に展けている。足の下に遠山川が銀蛇となってうねり、そのせせらぎがかすかに聞えてくる。対岸の加ガ森の尾根は真っ黒な木立を覆って、はるかな谷の奥へと連なっている。その谷の奥、重畳たる山襞のきわまるところに上河内が白くスカイラインを画いている。草の上に身を横たえて眺めまわすうちに、次第に平和な気分になっていく。分教場の脇を通り抜けて山の腹を搦む細い道を奥へと向う。猟師が二人鉄砲を担いで下ってきた。背中に獲物の猿が怨めしそうに目を剥いてくくりつけられている。人間に似ているだけに物凄い形相だ。
 このあたりで一流の案内人、野牧福長の家は、下栗から小野へ行くその名の如く「途中」にある。案内を乞うと彼は風邪気味で寝ていたが、快く起き出して何くれとなく注意を与えてくれた。精悍な感じのする男であった。相変わらずの、か細い道を小野へ辿り着いた頃、ようやく夕闇が迫ってきて白々とした月が現われた。どの家からも、もう夕餉の煙が立ち上っている。私も今宵の塒を捜さねばならない。路傍の農家に一夜の宿を乞い、ここに落着くことになった。
 明日から何日か、もはや自分一人になる。眼が冴えて睡り切れぬ夜であった。