松濤 明

 第三ルンゼを目指してきたが、水に濡れてテラテラ光っているのが望見されたので、天日で乾くまでの暇つぶしに衝立前沢からβルンゼに入る。右俣を登ったが上部はかなり急でヌルヌルしており油断はならなかった。懸垂岩基部をトラバースして一ノ倉尾根に立ち、γルンゼを下降。滝はたいがい右を捲いて下る。βルンゼ入口に帰って、食事後衝立のスラブをトラバースして本谷F下のバンドへ出たが、第三ルンゼは相変らず濡れているのでザッテル越え滝沢に変更、Bルンゼからあっさり稜線へ飛び出す。

 テラスに揃ってキジを撃ち、ここでアンザイレンしておもむろに取り付く。緊張しているにもかかわらず、闘志が一向ないので三ツ峠の悪場に取り付いているようだ。チムニー、その上の壁、大分手間どった。南稜が上部笹原に連なる付近は、直下に烏帽子沢を俯瞰してまことに気味が悪い。それにきょうは風が強く、いくども振られて胆を冷やした。笹原に入ってザイルを解き、握り飯を噛りながら笹に身を埋めてしばらくトカゲする。
 これからの斜面は悪くないが、抜かると烏帽子沢をダイヴするので慎重に登った。平田君の落ちたピークの上で服装を整え、沖ノ耳へ向う。尾根は素敵に風が寒く、土合に着いた時には、ああ、とうとう風邪を引いてしまった。山の家泊り。翌日は雲量零の大快晴であったが、かえって怠れて、マチガ沢でトカゲして午後の汽車で帰京した。

 スポーツ登山の眼目はスポーツ的感興の意識的追求である。それを登山の枠内で行なうというのである。すなわち、内容的スポーツであり、形式的には登山である。この構成が本来のスポーツ登山を規定する。ところが、その内容としてのスポーツ性のみに捉われて、近来ややもすれば登山という形式を逸脱しがちな傾向が認められる。たまたま見受けられる「頂きを度外視した」ルートハンティングがその好例である。「頂きはもはや何ものでもなくなった」一部のスポーツアルピニストたちはそう言って頂きの没落を唱える。「われわれの求めるものは山の手強さであり、頂きよりはむしろ側面である」彼らの考える山はとかく五色の千代紙を三角に扱ったようなものであることが多い。下辺も頂点も等しく紙であることには変りはない。そして彼らは――たとえば――赤いところを登りたがる。合理主義者である彼らは無駄をはぶく。赤いところから赤いところへ、なろうことならば赤いところだけ通って歩こうとする。頂きなどはたいてい赤くないから一顧も与えられない。その手前から戻ってくるか、さもなければ捲いてしまう。これに反して赤いところならば、どんなところでも見逃さない。河原に転がっている大岩や、藪に埋もれた巨たる岩場や、まかり間違えば大都会のビルや石垣さえ登りかねない。